各地での環境運動
こうした工業地帯に加えて、全国的に大気汚染を引き起こした元凶に、「走る公害」といわれてきた東ドイツ製の自動車がありました。
その代表的なトラバントやワルトブルクは、1957年に生産を開始して以来、東西統合で中止される91年までに約500万台が生産されました。
2サイクル車独特の高いエンジン音とともに、排気管からはモクモクと黒や白の煙を撒き散らします。
89年にベルリンの壁が崩れるとこの国民車がどっと西側に繰り出し、旧西ベルリンなどで大気汚染の計測機器の数値がたちまち跳ね上がりました。
東欧の開放によって、一斉に草の根運動が蜂起。
社会主義政権を倒した新政権は、いずれも環境保護を重要政策に掲げました。
ポーランドでは、89年の「連帯」と共産党が歴史的な円卓会議をもったときにも、連帯側は環境問題を政治問題と同等に扱うべきだと主張しました。
チェコスロバキアで環境保護の火の手を上げた「ブロントザウルス(雷竜)環境運動」、ハンガリーでは国家プロジェクトのドナウ川にかかるダム建設反対のために組織された自然保護団体「ドナウ・サークル」、ブルガリアで最初の反政府運動を起こした「エコ・グラスノスチ」など、多くの環境団体が反政府運動の起爆剤となりました。
さらに、堰を切ったように市民グループが立ち上がりました。
旧政権が公認していたのは、どの国でも1、2の自然保護団体に過ぎませんでした。
91年にはチェコスロバキアでは100以上、ハンガリーでは150、ポーランドでも200を超える市民グループが誕生しました。
各国の連帯も生まれ、「黒い三角地帯」では3国の環境保護グループに西側の支援団体が加わって、90年に「黒い三角地帯会議」が組織されました。